こまきね流自然塾    筆者と共に、身近なところに宇宙の真理と神秘を探して見ませんか?

Vol.1 百合の引っ越し
Vol.2 『手の平を返す』ガクアジサイ
Vol.3 遅れてくる子たち
Vol.4 「実を着けるということ」
Vol.5 「産まれたところが一番<前編>」
Vol.6 「産まれたところが一番<中編>」
Vol.7 「産まれたところが一番<後編>」
Vol.8 オキナグサの「啓蟄(けいちつ)<前編>
Vol.9 オキナグサの「啓蟄(けいちつ)<後編>

Vol.10コケリンドウ

   


『実を着けるということ』
                ――― 植物のイデアC―――

 

 私は自分の浅知恵に、ほとほとあきれることしばしばです。
 殊にここ40年あまり、ヤマシャクヤク、シラネアオイ、あるいはラン科のスズムシソウなどを、自分の身近に置いて鉢栽培してみて、つくづく、このことに気づきます。

 もともとこの住人たちは、冷涼な気候を好み、適度の空中湿度をたもつ落葉樹などの林縁あたりに、ひっそりと咲く、奥ゆかしいものたちなのです。コンクリートやアスファルトで装われた街、排気ガスのよどむ環境などでは、きっと、息が詰まりそうなのではないかと思いやっているのです(本当の思いやりは、自生地に置くことなのですが・・・・・・これらを栽培するのはエゴイスチックと自責しながらの半世紀なのです)。この思いやりが、むしろ、相手を苦しめていたように思うことがあります。
 私の思いやりは、この住人たちの東京近郊・市街地での生活は、それだけで多大な負担と疲労をかけているだろうということにあります。
 その上、花を咲かせてくれるのです。それだけでもう、大変な感謝です。ご苦労様、ありがとう、なのです。

 

 花の後、この植物たちは、とうぜん実を着けようとします。しかし、もう、これ以上の苦労を、この草たちにはかけられません。一年草ならそのまま実を着けてもらうのですが、多年草なので、実を着ける力の分を、少しでも負担を軽くしてあげようと考えました。実になる部分をすぐに摘み取りました。
 それは、厳しい冬に備える力をもつことにもなるはずですし、次の年の花のためにもなるはずです。凍土のなかでも春を待つ根・株やスズムシソウでは(偽)球茎などに、充分、栄養を蓄えてもらいたいと思いました。それが、花後の摘み採りになりました。


 

 作物の「花を摘む」という作業は、高校生のときまで、生家の畑でジャガイモや葉タバコ栽培の手伝いをしていた経験からごくあたりまえの発想でした。
 葉タバコは、2m近い背丈の頂点に、高山で目にするコケモモの花を数倍大きくしたような、実に美しい濃いピンク色の筒状の花を、複総状にたくさん着けます。ナス科特有の花の形です。花をそのままにしておくと、タバコ栽培の主目的である「葉」が、急変するのです。柔らかい葉面が硬さを増し、こまかい凹凸が際立ってきます。地面の生え際あたりの葉は早々に黄変してきます。そうなると、50〜60cmもある大きな葉の商品価値が下がります。葉を良好な状態にするために、農家では、総出で「花摘み」にかかります。茎や葉に触れた手先、衣類、帽子などは、煙草の「ヤニ」を塗り付けられたように、ベトベトしたものでした。石鹸で洗っても簡単には落ちません。


 体験は、時に、功罪半ばすることがあります。観念を固定化することがあるからです。
 こうして、何年もの間、ヤマシャクヤクやシラネアオイなども、花後の実の部分を摘み採ってきました。そうすることが、この植物の先々にとっても好結果になるに違いないと考えたからでした。
 しかし、結果は、必ずしも好ましいものではありませんでした。用土や鉢を変え、肥料を加減し、置き場所の工夫も重ねました。それでも作柄は上々とはいえませんでした。どうしても、自生地のものに近い草姿になりません。


  

 ある年、エビネ(ラン)の一株の姿によって、私は、それまでの観念を破られました。手引書通りに、花後、花茎ごと引き抜いた株と、ついうっかり花軸をそのままにして実を着けている株との、その後の葉姿の勢いが、あまりに違っているのを目にしたからです。
 抜き忘れた一本の花茎の中ほどに、まるでモンシロチョウの蛹がつくった繭のように見える、艶のある六筋のはいったランの刮ハ(実)が2つ、両腕を広げたような格好でついていました。そのエビネの株は、5〜6枚もの葉を一段と広げ艶を増し、いきいきしているのです。実を充実させるために、精一杯、葉を広げているのを感じました。とにかく、張り切っているのです。
 ところが、花茎を抜いてしまったために実を着けていない株は、どれも勢いがなく、8月の末ごろには、葉が枯れ始めたものもでていたのです。
 このことは、一本の庭木の下でおこった、しごく些細なことでしたが、私にとっては、大きな自然からの、畏れを感じるいかづちの閃光でした。

 それからです。私は、ヤマシャクヤクの花には実を着けさせシネラアオイの花後もそのままにしています。お礼肥も、自生地に積るであろう落ち葉の状態をつくるようにしています。
 02年のこの春、まだ肌寒い三月末、シネラアオイは、12〜3個の清々しくも息を飲むような薄紫のガク花を、大きく開いてくれました。私は、鉢ごと持ち上げて抱き締めました。少年の頃に感じたものに近い歓びでした。
 ヤマシャクヤクも、市街地では生きにくく、すでに地上部は枯れ果てました。しかし、実を着けている株だけは、酷暑のつづくこの8月、まだ緑の葉を広げています。三又型の実の鞘が、急に充実してきました。間もなく割けて、野鳥の目を驚かせるような真紅の真綿がはじけることでしょう。
 ガラス細工のように薄い緑の葉をスズムシソウも、花茎に寄り添ったみずみずしい実をつけて、夏を乗り切っています。株元には、昨年までの子どもたちが、幼稚園児たちの砂場のように群れ遊んでいます。

 

 

 葉タバコのその後が、いつまでも脳裏からはなれません。株の元からてっぺんまで、一本の茎から40〜50枚の「葉」を収穫した後、作業上、畑から引き抜き、畝溝に倒して埋め込みます。
 数日後には、倒された2mの体から、人の手ほどの穂先を垂直に成長させ、天に向けてあのピンク色の花を咲かせるのです。
 そこに、踏みにじることのできない、植物のイデアを感じるのです。

 


 追記・・・・・・『手の平をかえすガクアジサイ』でお願いしてありました、あの「タマアジサイ」のことです。伊豆高原・大室山の西麓、「池」集落を水源とする対馬川の中流あたりに自生しているタマアジサイに、8月中旬、会えました。ピンポン玉ほどの純白のつぼみと、咲きかけた花、終わりかけた花、それぞれに会えました。やっぱり「手のひら」を180度かえしていました 。
 
 
by F.KOMAKINE

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